東大な人:川松あかりさん

2018.03.27 インタビュー Facebook Twitter Line

総合文化研究科・文化人類学コースに所属する博士課程の学生は、1年から2年、長い人では数年にわたって、フィールドワークに向かいます。今回はその中で、福岡県鞍手町に1年間下宿し、筑豊炭田に関するフィールドワークを行った川松あかりさんにお話を伺いました。

どうすれば人の話を理解できるか

―文科三類だったそうですが、なぜ進学選択で文化人類学を選んだのですか。

大学受験のころから文化人類学を何となく目指していました。

川松さん小さいころからお話を聞いたり本を読んだりするのが好きで、アイヌやネイティブアメリカンのような先住民族の民話も読んでいました。民話の中に描かれる人々は自然と調和しながら生きているように思えて、何となく憧れていたのを覚えています。高校生のころは、将来環境問題の解決に関わりたいと思っていましたが、そのために必要と思われる理系の科目が大変苦手でした。民話などを読んでいて、文化人類学なら、様々な民族の生きざまについて学ぶことを通して、文系の立場からでも環境問題に取り組めるのではないかと夢想していたのです。また、元・朝日新聞記者の本多勝一さんが少数民族と長期間共に過ごした記録をまとめた『極限の民族』を読んで、ルポルタージュを書くことにも魅力を感じ、文化人類学だったらこんなことができるのではないかと思っていました。

ただ、実際に文化人類学コースに進んでみると、思い描いていたものとは違いました。人のお話を聞きたくて入ったのですが、最初のころの授業では親族構造、政治体系などを扱った文化人類学の古典を読んで、機能主義や構造主義のような基本的な理論を学ばねばなりませんでした。そのときはそういった古典がよく理解できず、非常に辛く感じてしまいました。人間の社会を第三者の目線で分析するという文化人類学の一般的な姿勢が、上から目線にも思えました。

私自身にも変化がありました。学部時代は勉強よりサークルや恋愛のようなプライベートのほうが大事という人も多いと思いますが、そこで私もいろいろな悩みに直面しました。喋ることが得意だと思っていたのに、大学に入ってからそれまでに経験したことのない辛さを味わい、言いたいことをうまく喋れないと感じることもありました。そんな中で、「環境問題」のような大きな社会的課題よりも、どうしたら自分の身の周りの人の話をきちんと理解して、その人に寄り添うことができるのだろう、ということの方が私にとっては切実な問題になってきていたのです。

―筑豊炭田に興味を持ったきっかけは何ですか。

学部4年生のときに受けた民俗学の先生の授業で、名もなき普通の人たちの声を引き上げようとした運動として、『サークル村』という雑誌について学びました。この雑誌は1958年から61年まで刊行されており、当時九州の労働者の間で花開いていた文芸やコーラス、映画などといったサークル活動を統合しようとする文化創造運動としてとらえることができるものです。

その授業の受講者は少なく、先生の講義が一通り終わると1人ずつ発表することになりました。 私は『サークル村』の編集メンバーの1人である上野英信について発表することにしました。上野英信は実際に筑豊の炭鉱で働いていたこともある記録文学作家です。彼が「はなし」という概念にこだわり、文字が読めない人も少なくない筑豊の労働者が、子どもたちと一緒に簡単に読めるようなお話を作っていたと知り、興味を持ちました。発表にあたって彼の著書である『追われゆく坑夫たち』と『地の底の笑い話』を読んだところ、大変な衝撃を受けました。

『追われゆく坑夫たち』は1960年に出版された本です。当時の日本は、石炭から石油へのエネルギー政策の転換がなされている最中でした。筑豊は明治の一時期には日本の石炭生産の50%を占めたほど大規模な採炭地域なのですが、生産の合理化が難しい小規模な炭鉱も多く、それらは政策によって真っ先に閉山されていきました。ただでさえ炭鉱の労働は非常にきつく、特に零細な炭鉱は設備も劣悪だったのに、労働者たちはその仕事さえ奪われていったのです。この本の途中に、労働者たちが「わしは『下罪人』だから」と言い、それ以上何も語ってくれなかったという場面があります。彼らは何も声を上げることもなく、沈黙のまま消えていってしまったというのです。私はそのことを知らなかったし、炭鉱自体に興味も持っていなかったので、非常に衝撃を受けました。

自分もそのころ勉強や人間関係、就活などで悩んでいましたが、そういう次元ではなく、本当に苦しい思いをした人がいたことを知りました。ちょうどその前年に福島の原発事故が起きましたが、福島の原発からの電気が東京に供給されていることも、事故が起こるまで知りませんでした。あの事故のせいで故郷に帰れずにいる人もいれば、原発で働いて被曝してしまった人もいることも考えると、本当は自分にも関係があるはずなのに、全然違う世界に生きている気がして、自分への罪悪感のようなものがありました。『追われゆく坑夫たち』で描かれた世界には、これと重なるものを感じました。

もう一つの『地の底の笑い話』は『追われゆく坑夫たち』が出版されてから7年後の1967年に出版された本ですが、こちらは一転して、炭鉱労働者たちが自分たちの身の上を笑い話に託して語っているということを描いた本です。例えば炭鉱で事故死した人が幽霊になって出てくるというものや、“圧政”の炭鉱から逃げる「ケツワリ」をどのようにやり遂げたかといった話を笑い話として語っているのです。そんな笑い話の内容に私は笑えませんでした。何より、『追われゆく坑夫たち』と状況的にはそんなに変わっていないはずなのに、同じ筑豊の炭鉱に生きた人が沈黙ではなく笑い話として自分自身について語っていることがとても不思議でした。そして、ひょっとすると、炭鉱労働者の人たちの話を聞く側であり書く側でもある上野英信の捉え方の方に変化があるのかもしれないと思いました。他者について書くということは、人の話をちゃんと聞いて語り直すことだと思うのですが、どうすればそれができるのかという私が普段抱いている問いに対する答えが、そこにある気がしました。それ以来、筑豊の炭鉱に関する語りをテーマにして研究を続けています。

顔見知りも増えた筑豊での日々

―フィールドワークではどのようなことをしましたか。

私のテーマは、炭鉱をどのような人が、どのように語り継いでいるのかというものです。もう少し難しく言うと、一体どのような人物が炭鉱を語り継ぐ主体になるのだろうか、その人たちはいかに今炭鉱を語り継ごうとしているのだろうかというテーマです。

下宿先の鞍手町だけでなく近隣の市町村も回り、炭鉱に詳しい方を次々に紹介してもらい、その方々に話を聞きに行くということを繰り返しました。どのような人が、どのような思いを持ってどういうことを私に今伝えようとしているのか、ということを考えていました。もちろんそれは私がどういう質問をするかによって変わってくるので、難しいことでもあります。

講演会や、「語り部」さんがお話をされる行事など、炭鉱に関係があるイベントにもたくさん足を運びました。小学校の炭鉱に関する授業も見に行きました。炭鉱についての教材を先生たちが作る場にも参加しました。

―印象に残ったことはありますか。

日本人と在日コリアンが共同で無縁仏を供養する小竹町の松岩菩提(川松さん提供)
日本人と在日コリアンが共同で無縁仏を供養する小竹町の松岩菩提(川松さん提供)

筑豊に限らない話ですが、戦時中に朝鮮半島からたくさんの人々が強制的に連行され、働かされたという問題があります。筑豊には、こうした一般には蓋をされがちな歴史を絶対に語り継がなければならないと考えて、何十年もの間活動してこられた方々がおられます。筑豊の中には炭鉱にまつわる慰霊碑や供養塔がたくさんあります。戦前の筑豊の炭鉱では、朝鮮人が亡くなってもきちんと埋葬を行わないことがあり、朝鮮人の方々がボタ(石炭として出荷できない石)を墓石にして、自分の仲間を埋めるということもあったそうです。そのような過去があるため、今でもまだ、遺骨を韓国の故郷に返還したり、供養祭をしたりする活動が続けられています。こうした場面では、日本人と在日コリアンの方々が一緒に活動を行っていて、とても強い信頼関係で結ばれていました。このように、重たい歴史に向き合い関わり続けることで、社会的な立場の違いを超えて人としてつながっておられる方々にお会いできたことは、とても印象に残っています。筑豊について暗い歴史が多く語られてきたことに抵抗感を持っておられる地元の方々も多くいらっしゃいます。私のような立場からは、そういった方々の思いもちゃんと受けとめていかなければいけないと思っています。しかし、このような暗い歴史に向き合うことを通して結ばれた人間関係のおかげで、筑豊では、現在の国際的な政治対立などにも惑わされることなく、日本人と在日コリアンの方々が様々なところでつながり、一緒に活動しているのです。それは、暗い歴史を未来につながるエネルギーへと変えてきた筑豊の人たちが作り上げてきた、むしろ“明るい”歴史なのだと、こうした活動に参加させていただく中で思うようになりました。

―下宿生活はどうでしたか。

下宿する前から数回筑豊を訪れているうちに、知り合いがどんどん増えていき、何人かの方が熱心に下宿先を探してくれました。そこで、炭鉱の教材化に積極的なある学校の先生に出会い、鞍手町にあるその方の実家に住むことになりました。

下宿先にて(川松さん提供)
下宿先にて(川松さん提供)

下宿したお家はとても大きいお家でした。庭が山の斜面のようになっているのです。私が下宿し始めた4月ごろは毎日80歳を超えたその先生のご両親が採ってきたタケノコを調理して食べていました。夏になったらピーマンやキュウリが穫れ、秋にはみかんや栗もたくさん実っています。家で穫れたいろいろな食べ物とお母さんの手作りの温かいご飯を毎日食べさせてくれました。

いつも家族と付き合っているのは疲れるだろう、プライベートな時間も欲しいだろうから、自炊もできるようにという配慮で、キッチンが付いた離れの部屋を用意されていました。でも結局、毎日夕食の時間になると「あかりちゃーん」と電話がかかってきて、ご飯を食べさせてくれました。下手すると調査中に電話がかかることもありました(笑)。とにかくお母さんの愛情がすごかったです。

お母さんはおしゃべりが好きで、毎晩いろいろなことを話してくれました。お父さんはあまり喋らない方でしたが、かつて炭鉱で働いており、炭住(炭鉱の社宅)にも住んでいたので、最初は炭鉱についていろいろと説明してくださり、聞きづらい話もしてくれました。しかし、住んでいるうちに家族のようになったので、逆にあまり炭鉱の話を聞かなくなりました。
私が帰る日が近づいたら、お父さんに「聞き残したことはないか」と急に言われました。私が疑問だったのは、炭住について話すとき、多くの方が決まって「炭住の生活はよかった」、「炭住ではみんなとても仲が良かった」と、おっしゃることでした。本当にみんなが仲良しということがあり得るのだろうかと疑っていました。そこで「炭住の生活は何が良かったのですか」と聞いたら、お父さんは「みんな貧乏で、みんな同じでしょ」と答えたのです。今の会社だったら昇進があり、同僚もライバルですよね。しかし炭住に暮らしていたときには昇進というものがなく、みんな同じレベルで生活していたので、競争というものが全くなかったんだそうです。そのような一歩深い話をお父さんがしてくれたことが印象に残っています。1年間暮らしたからこそ聞けた話だと思います。今でも筑豊に行くときは絶対そのお家に泊まるようにしています。

自分自身も差し出して一緒に考える

―フィールドワークの意義とは何ですか。

文化人類学ではフィールドワークに行くことが当たり前になっています。その目的は、現地の人たちと同じ目線でこの世界がどうなっているかを考えたいということだと思うのです。もちろん、完全に同じ目線でというのは無理な話でもあります。そういう意味では、他の学問のフィールドワークとは少し違っています。例えば言語学だと言語を収集することが目的ですよね。文化人類学のフィールドワークは、ただ情報を収集するために行くものではなく、その人々と一緒に暮らしながら、彼らがどういう活動をしているのか観察するというやり方をとるのです。自分も首を突っ込んでその一部になろうと試みつつ観察するという、悪く言えば図々しくもある学問です。

実際に私が何かの会合に参加したら、「今日は若い人が来ているので、感想を聞いてみましょう」と言われ、喋らされることもあります。炭鉱についていかに語り継いでいるのかを観察するのが目的なのに、行ってしまうと私もその1人にならざるを得ません。皆さんからそうさせられるというのもありますが、現地の方々と一緒に活動していると、私も真剣に「じゃあどうやって炭鉱のことを語り継いだらいいんだろう」と考えないといけなくなってきます。このように私の研究の過程は実際に生きている人とお付き合いしていくものであり、論文も生きている人の営みについて書いていくものなので、私も自分自身を差し出さなければなりません。地元の方々が抱える問題やそれに対する彼らの考え方について、それによって初めて分かる部分があるのかなあと思っています。

―将来はどんな仕事に就きたいですか。

筑豊の炭鉱は、日本が戦後発展していく中で切り捨てられた部分です。筑豊には厳しい人も多く、私が東京から来ているというだけで不信感を抱かれることもあります。東大の人ということで嫌われて、拒絶されることもあります。そこをぶち破るまでに私は何度も泣かされました。「お前はどういう立場で何をしようとしているのか」ということをすごく厳しく問われました。そんな方々の中に1年間入れてもらって考えてきたので、その方々から学んだことを蔑ろにするような生き方はしてはいけないなと思います。

以前は私自身も文化人類学の姿勢に不満を抱いていて、研究をしながらも研究者にだけはなりたくないという屈折した心を持っていましたが、最近はそれも解消されてきました。しかし、研究者は情報を盗んで自分だけどんどん地位が上がっていくような人たちだと思われている側面もあるので、そうではない人になりたいと思っています。研究の重要さも感じるようになりましたが、必ずしも大学の研究者にならなければならないとは考えていません。

同じ社会の全く違う世界で得たもの

―東大生へのメッセージを。

みんながそうだと言いたいわけではないのですが、東大に入るような人は、何となくみんな同じようなコースの人生を辿ってきた人が多いような気がします。そして、研究者になるにせよ、就職するにせよ、大学を出てからも、やっぱり社会の中の同じような位置で生きていく人が多いのはないでしょうか。周りに同じような人たちばかりがいると、同じ社会にいても全然違うところに立って生きている人がいるということに、なかなか気が付きにくいように思います。

東大の文化人類学研究室では、海外にフィールドワークに行くのが一般的です。せっかくそんな研究室に入りながら日本に留まっている私は勿体ないことをしているのかもしれないとも思います。けれども、戦中・戦後の炭鉱町を生きてこられた方々や、暗くて常に事故の危険もある炭鉱の中で働いてきた人たちの辿ってきた人生は、私たちの人生とは明らかに異なっています。同じ日本社会に生きていて、同じ日本語で会話することができると言っても、その方々の人生や思いを理解するのは全く簡単なことではないのです。さらに、炭鉱で働いた人や私たちの知らない時代を生きてきた方々だけではなく、筑豊では、子どもから大人まで、私たちと同世代の方々も含めて、当たり前のように大学に入って大学院に行ったり就職したりしていく私たちとは全く違う人生を歩んでいる方々にたくさんお会いすることができました。そんな方々と一緒に活動して、お話をうかがうことで、狭い世界の、決められたコースの中で成功しなければならないように思いつめてきた自分の姿にも気づかされました。筑豊に行ったことによって、様々な生き方をしている方々からたくさん知恵や力をいただいたなあと思っています。

飯塚市大門坑のボタ山(川松さん提供)
飯塚市大門坑のボタ山(川松さん提供)

同じ日本の中でも、自分たちの生きている世界とは全く違うところに生きている人たちがいます。私たち東大生も、就活や、就職してからもいろいろなことで悩んだりすることがあると思いますが、私が筑豊で出会った人たちはしばしばこれとは全く違う問題を抱えています。しかし、私が出会った多くの方々が芯のある生き方をしていて、とても明るく楽しく振る舞ったり、自分たちが抱える問題について真剣に考えたりしながら、いろんな人たちとつながっていました。特に狭い範囲で生きてきた私が皆さんに偉そうに言えることではないのですが、たまには違うところに行ってみて、全然違う人たちの生き方に触れ、様々な生き方について考えてみるというのもよいものだよ、と言いたいです。そしてそんな場所は、実は案外近くにたくさんあるのだと思います。たまたま私にとっては、そういう世界への扉が筑豊にあったのです。私が思っているよりもいろいろな生き方をしている人たちが私のまわりにはいっぱいいるのだ、ということに想像力をはたらかせながら毎日を生きているだけで、私自身の心も豊かになったし、筑豊に行ってみる前よりは多くの人に寄り添える生き方ができるようになっているんじゃないかな、と思っています。

―ありがとうございました。

(編集:東京大学UTLife)

TOPへ戻る