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桁違いのスピードでの演算が可能な量子コンピューター。その基礎である量子テレポーテーションに挑み、世界初、三者間での量子テレポーテーションを成功させた東京大学の古澤明教授。今回は量子テレポーテーションで世界に先んじる古澤教授に、東大入学から企業就職、そして東大に戻ってきた経緯と、東大生へのメッセージを伺った。

高校時代はミーハーだった

東大に入学しようと思ったのは、おそらく僕がミーハーだったからではないでしょうか?実際、東大生にはミーハーが多かったですね。僕の出身高校は浦和高校だったのですが、僕の頃は現役生と浪人生合わせて5,60人ほど東大に入っていたんです。自分の学力と照らし合わせても、特に違和感なく東大への進学を考えましたね。

東大に入学してから

古澤さん

大学に入ってからは、ほとんどスキー漬けでしたね。僕は競技スキーのサークルに入っていたのですが、そこで色々なレースに出場しましたね。いい経験になりましたよ。進学振り分けで学部を選ぶときも「スキーが続けられるところは…」という基準で選びました。

学生時代に量子力学を学びましたが、別に先を見越していたのではなくて、もう自分が勉強する時点では量子力学は必然的に学ばなければならないことだったんです。現代の物理学においてむしろ量子力学を外すことのほうが難しくて、そういう意味では量子力学をやることは普通のことだったんですね。量子コンピューターに応用しようとか、そういったことは今でもあまり考えてないですね。

この大学に入ってよかったなと思うことは、スキーをやって度胸がついたことと、まわりの友達が、同じ学科に限らず凄く優秀なので、いろいろな角度から刺激を受けたことでしょうか。映画監督の中田秀夫さんは駒場の時に一緒のクラスで、駒場祭では一緒に映画を撮りました。

進学振り分けで、工学部物理工学科に進路を決めたというのは最大のヒットだったと思っています。普通の純粋な物理だけやっていたら、電子回路であったり、制御論であったり、そういったことを習わないんですよ。でもそういったことを学ぶのは、ある実験を物理的に実現するためには、物理そのものよりも大変なんです。実験に必要な回路学や制御論を、純粋な物理と一緒に系統的に学生時代に学べたことは今の僕の骨格を成しているし、そういう意味でものすごくヒットだったと思うんです。こういった応用物理系の物理工学科がある大学って案外少ないんですよ。物理工学科という名前を持つところはあっても、かなり機械工学科に近いものだったり、あるいは応用物理といってもほとんど純粋物理のコピーのようなものであったり。その点、東大工学部は非常にちょうどいい点に立っているんです。つまり、純粋な物理を学びながらも、実験を物理的に実現するのに必要な術を身につけることができたのですよ。

でも学生のときは、必ずしもそういったことだけを考えて工学部に進学したわけではないんです。実際、学部に入ってもスキーを続けたかったので、自分が進学したい中で最もゆるい学科はどこかということも考えましたし。それが一番大きいですね。こういうと結果論になってしまうけど、今でも最もいい選択をしたと思いますね。

工学部に進学してからは、今の研究とはあまり関係ないことをやっていましたね。僕は半導体の光物性というテーマを学部と修士でやりました。まったく関係ないわけではないですが、今の量子テレポーテーションに直接つながるものではありませんでした。

大学院を出て、一般企業へ

古澤さん

大学院で修士課程を修了したら、普通の企業に就職しました。何だかんだで、足掛け15年はその会社にいましたね。大学院に残って博士課程の道に進まなかったのは、時代の必然性からでした。今の時代でこそ、理系の就職では修士が当たり前ですよね。当時は会社に入ると2~3割が修士卒以上の人たちで、残りの7割近くは大学院に行っていない学部卒の人たちだったのです。だから修士課程を修了していれば会社の幹部養成、つまりエリートコースだったわけです。あとは、当時は大学がめちゃくちゃ貧乏だったというのも、企業に行ったひとつの理由でしたね。この工学部6号館だってアスベストが天井からはがれかけているような有様でしたから。研究費なんかは、僕が就職した当時は企業のほうがずっと多かったですね。だから普通の神経している人は、修士課程を出て企業に就職するというのは最も正しい考えだと思っていたんです。

こういう風にいうと、みんな博士課程に行かなくなってしまうかもしれないけど、今は状況が変わったから、そんなことないですよ。今では研究費は企業よりも大学のほうがずっと多いですから。しかも今は大会社だと理系の場合97%くらいは修士卒ですから、修士号を取って企業に入ってもエリートとは呼べないし、大事に扱われないですからね。だからそういう意味で、会社に入ってからもエリートでいるためには、やっぱり博士を持ってないと駄目ですね。僕の15 年間の会社生活を振り返ってみて、そう思います。年を経るごとに修士卒の人たちが増えてきて、昔は学部卒の人たちがやっていることを今では修士卒がやっているから。僕は会社に入って5年目に博士号を取りました。だから大学で博士号を取るのに対して後れを取ったわけではないんですね。企業では光メモリを研究していました。CDやDVDも光メモリですよね。光を当てて、その反射光を認識してデジタルなデータを読んでいるわけです。そういった光メモリの次世代を担うものを開発していました。今は情報の読み取りに一つの波長、つまり一つの色を使っているんです。僕らが研究していたのは、色の情報も取り入れようというものでした。今はホログラフィックメモリといって、ディスクの平面だけではなくて深さ方向に情報を詰め込めるものがありますけど、僕らは深さの代わりに周波数を情報として詰め込もうとしたわけです。

この研究はそこそこまでいったんですが、よくよく考えると高密度の光メモリは情報の密度の分だけ高速な読み取りができないと意味がないんです。つまり、情報を10000倍詰め込んだら、10000倍速く読むことができないといけないんです。ディスクの盤面に書かれている情報量が10000倍になっても、それを探す速さが同じだったら時間は10000倍多くかかってしまいますから。

そのためには情報を読み取るヘッドを速く動かさなくてはいけません。すると、反射してくる光の量はものすごく少なくなってしまうんです。究極的には、光が来ているか否かをフォトン(光子)が1つ跳ね返ってきたかどうかで分離しなければいけなくなります。物理的に限界があるわけです。1個のフォトンより細かいものを読めないですからね。でも計算してみると、高密度の光メモリでは、そのレベルの読み取りが要請されるのです。

でも、やりようによってはフォトンを割ることができます。フォトン1個のエネルギーよりも小さい分解能で、情報を読むことができるんです。実験的には1985年にわかっていたことです。僕が会社に入ったのは1986年ですから、入社当時はほぼ最先端の技術でしたね。ただそのためには、光の量子状態をいじらなくてはいけない。そこで量子力学が出てくるのです。1992年くらいに量子光学の勉強を始めましたね。世界の最先端からは6年ほど後れていたけど、そこまで気にするものでもなかったですね。そもそもこういった量子光学は学問ではなかったし、学校で習うべくもなかったのです。当時はインターネットもありませんでしたからね。

渡米、そして研究

そこで、いろいろな人に当たってみて、このような量子光学を学ぶにはどうしたらいいかというのを訊いて、アメリカのある先生のところに行くことを薦められました。『ここをこうすれば、この技術が実現可能になる』ということを、最終的には副社長くらいまで話を通しました。企業側にもメリットがあって、自前の研究所で設備を買って人を専任にするよりも、技術者を現地に派遣するほうが設備を買う必要がない分安上がりなのですよ。別にアメリカに行くことを目標としていたわけではなくて、当時そういった研究をしている人がアメリカにしかいなかった。アメリカへ渡ったのはそれだけの理由です。

大卒並みの英語力は持ってたけど、最初はネイティブの言っていることなんてわかりませんでしたね。語学学校などには行かなかったので、アパートを借りるとか、電気を引くとか、免許証を取るとかで苦労しました。学問に関しては何も苦しまなかったけどね。そこで学んだことは、今の研究につながるものですね。

帰国、再び大学へ

古澤さん

日本に戻ってきて、僕は会社に戻りたかったんです。ただ、帰ってきた時期が悪くて、ちょうど日本が不況に襲われていた時期でした。大手の証券会社が潰れたりしてましたね。僕のいた会社も実は危なくて、不況のあおりでベーシックリサーチから撤退してしまったんです。僕がいた研究所が、戻ってきたらなくなっていたんです。だから違う部署に配属されて、冷や飯食いになってしまったのです。お世話になっていた上司も誰もいなくなっていて、みんなばらばらになってしまった。自分の居場所がわからない、いわば「浦島太郎状態」でしたよ。じゃあ転職してやろうと思って、東大に戻ってきました。

東大に戻るって言っても生易しいものではなかったですね。公募があってそこに応募したんですけど、何十倍という倍率で。書類選考や面接などがありましたが、そこでアメリカでの研究が認められたのでしょうね。僕が今いる学科は、研究のテーマを膨らませようとしているというタイミングだったんです。この学科には僕が研究しているようなことをやっている人がいなかったので、ちょうど僕が欲しかったのでしょうね。

そして今の研究につながっていくわけです。量子テレポーテーションに興味を持った理由をお話しします。昔、量子力学の黎明期にいろいろな思考実験(ゲダンケンエクスペリメント)が提案されてきました。専門的になってしまうけど、例えばシュレディンガーの猫や、アインシュタイン=ポドロフスキー=ローゼンのパラドックスがそれにあたります。その後テクノロジーが進歩して、過去の思考実験を実際の物理的な機器を使って実現できる時代になりました。昔は物理学者の頭の中でしかできなかったことが、実際にテーブルトップでできるということはとても面白いことだと思います。その最たるものがテレポーテーションです。それでその最先端が、僕が今やっている光を使った領域なんです。

光というものは温度にたとえると何万度という世界です。人間の住んでいる世界は所詮数百度ですから、光の温度と比べればこの程度の温度は無視できるんですね。だから、光を使えばまわりの環境に左右されずに量子状態を作ることができて、それを保持することができるわけです。

研究は、ゲームのようだと思っています。ゲームは基本的に楽しまなければ勝てないんです。楽しいというのは定義の問題かもしれないけど、今の仕事をやっていて、確かな達成感はありますね。毎日、研究を楽しんでやっていますよ。

すべてを「エンジョイ」という感覚で

僕は今駒場で『量子コンピューター入門』という講義をやっています。この講義を聴いている学生には「エンジョイしろ」といいたいですね。こういうと不謹慎に聞こえてしまうかもしれないけど、学問は「楽しいこと」だと思うんですよ。スキーやっているのも、研究しているのも、講義しているのも、根底の感覚は変わらなくて、全部楽しんでやるんです。すべてを同じ土俵で楽しんで欲しいのです。スポーツだからこう、学問だからこうって分けて捉えるのではなくてね。

駒場の教養の2年間は、いわば筋トレなんですよ。腕立て伏せ、腹筋の類ですね。でも「腕立てを楽しめ」って言われても、楽しくないでしょう?特に日本の教育のシステムって、例えば線形代数が何に使えるかをまったく教えないで、ひたすら勉強させるでしょう?確かに、線形代数自体はとても大事なことだけど、何に使えるかがわからなければ、学生は「こんなこと毎日毎日やらなければいけないのか」って思ってしまうのも当然ですよ。でも、こういった筋トレは意味があることなんです。日本がこういった教育システムになって数十年、ずっとカリキュラムをいじってきた結果、最適だと思われる教育方法を採用しているわけですから、意味はちゃんとあるのです。ただ、その意味、ビジョンが示されていないのは残念です。

研究とは、本来楽しいもの

古澤さん

ちっちゃい子は原始的なおもちゃでも楽しそうに遊ぶでしょう?それは彼らにとってそのおもちゃが未知だからなんです。研究はそもそも面白いことなんですよ。未知のことをやっていくわけですから。子供がおもちゃで遊ぶのと大差ないんです。

でも、そういった楽しさを得るためには、真剣勝負をしなければいけないんです。研究だけでなく、何に関してもね。腕立てや腹筋みたいに筋トレばかりではつまらないけど、ゲーム、つまり試合に出ると面白いでしょう?人間が面白いと感じるのは、多分真剣勝負なんですよ。真剣勝負というと、日本語の語感からいうと負ければ命取られるという意味があるから、どっちかというとゲームという言葉のほうが合っているかもしれないですね。負けたら次を頑張ればいいのです。そういう意味でゲームなんです。すべてゲームを楽しむという思想でやれ、と僕は言いたいですね。

ただ、ゲームを楽しむためには試合に出なければいけなくて、試合はそれなりにトレーニング積んでいないと面白くないでしょう?基礎体力が必要なんですよ。これがないと、すぐへとへとになってしまいますから、あまり面白くなくなってしまうのです。だから、基礎体力をつけるために駒場の2年間の教養があるのだと思います。あとは専門課程に入ってからの1年間もそうですね。筋トレの時期なのです。4年生になれば否が応でも研究、つまりゲームになりますから。

駒場の学生には、今が辛くても、「これは4年生になってゲームを楽しむための筋トレなんだ」と思って勉学に励んで欲しいですね。将来この筋トレは、きっと役にたちますよ。

自分が学生だった頃は

僕が学生だった頃に比べると、今の東大はおとなしい学生が多いかな。僕は駒場にいるときに、『国家の品格』を書かれた藤原正彦先生に線形代数を習っていたんです。先生は僕が学生の頃から有名な方で、『若き数学者のアメリカ』という本で当時人気を博していました。そうしたら先生の講義が始まる前に、黒板に『若き数学者のアメリカ』と大きな文字で書いたんですよ。藤原先生は教室に入ってきて、何も見なかったように消してしまいましたけど。当時はそういった、いい意味でいたずらをしたり、活発に色々な活動をやったりといった学生が多かったですね。それに比べると、今の学生はおとなしいですね。

あとは、友達とつるむのが下手な学生が多いと感じます。学部生に「顔と名前が一致する人が同じ学科に何人いる?」と訊くと、「10人くらい」っていう学生が多いですね。研究というのは1人じゃできないし、そういった意味でも協調性は必要だと思いますね。うちの研究室では学生同士の係わり合いが減ったとかそういったことはないけど、講義をやってて思うのは、学生に元気がないことですね。昔に比べて、ということだけど、もしかしたらそういう時代なのかもしれないですね。昔は、娯楽といっても今のようにインターネットはないし、メールはないし、とにかく少なかった。今のように、インターネットなどの1人で楽しめる娯楽が発達してしまったら、必然的に人との係わり合いが減ってしまうのかもしれないですね。子供達を見ていても、ベンチに座ってそれぞれが自分のゲームに没頭している時代ですからね。

節目節目での判断

僕がここにいることができたのは、人生の節目節目で結果的に正しい判断をしたからだと思います。まず、東大に入ったこと。工学部の物理工学科に進学したこと。研究者として一般企業に就職したこと。僕は基本的に最小仕事の原理で動いていたので、企業に就職したときだって、13社ほど見て、最も楽そうな就職先を選択しましたね。入社してからは、そういったイメージはすぐに覆されましたけどね。だから、物理工学科を選んだのもそうですが、エネルギーが一番かからないような道を選んでいったらこうなっていた、とも言えるでしょう。でも、それが自分にとって非常によい選択肢だったのです。

あとは、時の流れというのも大きかったと思います。もしも不況が日本を襲わなかったら、今頃僕はまだ会社にいましたからね。だから、色々な条件が重なって、気がついたら量子テレポーテーションを研究していたという感じです。でも、その時々で全力は出し切りました。そういう意味ではずっとゲームを楽しんできました。

東大生へのメッセージ

古澤さん

研究はゲームといいましたが、もちろんゲームは勝負ですから、負けるときもありますよ。全力を出しても負けるときはあるんですよ。所詮ゲーム、死ぬわけではありませんから。くよくよせず、別のことでも考えて切り替えますね。どんな勝負をやるにしても、鈍感力がないと駄目だと思うんです。前の結果を悪い意味で引きずっているのはよくないことだと思いますね。ストッパーがある日カキーンって打たれても、次の日は何食わぬ顔してまたピンチに出て行かなければいけないんですよ。もちろん、日々のトレーニングを含めて、勝つための最大限の努力はしないと駄目ですよ。負けから学ぶことももちろんありますが、僕個人としてはあまり振り返らないほうがいいと思いますよ。そうでないと、打たれ強くなりませんよね。

今の東大生に『バントをするな、ホームランを狙え』というメッセージを贈りたいですね。もちろん実際の野球では、バントをする場面もありますけど、みんながみんなバントしていても面白くないでしょう?東大生はホームランを狙うべきです。フルスイングは三振する、つまり勝負に負ける可能性もあるけど、それは忘れて次を見る。ヒットはホームランの当たりそこない、という気持ちで挑んでください。人生のそのときそのときで、三振を恐れずに全力で振って来いと言いたいですね。時に「あのときのカーブが…」などと考えることもあると思いますが、決して後ろ向きにならないことが大切だと思うのです。

プロフィール

1961年、埼玉県生まれ。東京大学工学部物理工学科卒。同大学大学院修士課程修了後、ニコンに研究員として入社。88年から90年まで、企業に在籍しながら、東京大学先端科学技術センター研究員を務め、光で情報を読み書きする大容量メモリの研究に従事する。91年、博士(工学)、東京大学。96年から 98年まで、カリフォルニア工科大学客員研究員。帰国の年、量子テレポーテーションの実験に世界で初めて成功。帰国後、再びニコンに復帰した後、2000 年から、東京大学大学院工学系研究科助教授。2004年には、三者間の量子テレポーテーション実験に成功。平成17年度、「東京テクノフォーラム21」ゴールド・メダル賞、久保亮五記念賞、平成18年度、日本学術振興会賞、日本学士院学術奨励賞受賞。2007年に東京大学大学院工学系研究科教授となり、今に至る。

(編集:東京大学UTLife)