東京大学公式の情報サイト「東大ナビ(UTokyo navi)」は、本学の部局や研究所が開催する多彩なイベントの情報を集約し発信しています。


下田正弘先生

文学部には古今東西の名を冠する、実に様々な文化それぞれに対して研究室が設けられている。

今回はその中から、文学部思想文化学科インド哲学・仏教学専修の下田正弘教授にお話を伺った。

―まず、インド哲学・仏教学研究室とは何をやっているところなのか、研究内容を教えてください。

仏教研究の起源

下田正弘先生

その名のとおり、この研究室はインド哲学、仏教の研究をしているところです。私の場合は仏教が中心です。この部屋にある本が洋書ばかりなのは、どの学問もそうですけど、大学で進められる仏教研究も、近代のヨーロッパが発祥の地なのですね。その影響を大きく受けています。

日本を含め、アジアのそれぞれの仏教諸国地域は、1500年、2000年という仏教の伝統を持っていて、その伝統的方法によって仏教の知識を伝承してきました。一方、18世紀に入って、西洋に新たな学問としてのインド研究・仏教研究が生まれ、それが世界に流布してそれまでの伝統的研究を変えていきます。これはどの伝統的な宗教とか文化にも起こっていますが、仏教もまた然りですね。

研究室活動の前提として、仏教がこの新たな学問の対象となるまでの歴史を簡単にお話ししましょう。ヨーロッパの世界は、いわゆる大航海時代以前までは、キリスト教の世界に閉じていました。大航海時代になって外に出て行き、さまざまな宗教や民族、言語に出会って自分たちを相対化し始めます。言語についていえば、当時、例えばフランス語や英語、ドイツ語などのほかに、文化の起源としてのギリシャ語があり、ラテン語がありました。ところが18世紀の後半にインドという世界を知って、ギリシャ、ラテンよりもっと古い、それらの母体となる言語、サンスクリット語があることを知ります。そこでは、キリスト教が入ってくる前の神々の世界が表現されている。今は全部キリストになっているけれどもそれよりもずっと前の世界があるのだ、ということに気づき、インド・ヨーロッパ語という新しい概念が誕生したんです。

本棚

サンスクリット語という言語の発見は、ヨーロッパが初めて自分たち以外の他者に出会い、自分たちを映す鏡を外に発見した出来事です。そこからヨーロッパがキリスト教を離れてほかの宗教、ほかの言語を探求する旅が本格化します。新しい言語つまりサンスクリット語の発見とキリスト教の相対化というプロセスを経て、宗教学という学問が成立していきます。世界にはいろんな宗教があり、いろんな言語で、いろんな聖典として記述されていることが理解されてきたわけです。仏教はそのなかでも大きな注目を集めました。

仏教がアジア全体の精神文化の基礎を作っていることに、ヨーロッパの人々は早くから気がついていました。ここを解明すれば、世界の謎が解けるというか、自分たちキリスト教以外の世界の謎が解けると考えたのです。伝承されていた経典をできるかぎり回収し、ロンドンやパリの研究所や大学、図書館に持ち帰り、言語を解読して文法を解明し、そのなかに記された内容を読み解く努力を続けてきました。

1880年代からPali Text Societyが、ロンドンで、パーリ語の典籍・東南アジアの仏教の聖典集を出版し続けてきました。全部ラテン文字、ローマ字で写して、自分たちの表現形式に変えて世界に流布させていきました。そうすると今度は東南アジアの仏教者たちが、自分たちの伝統の営みを世界の中で照らし返して表現するために、ロンドンに行かなきゃならなくなったのです。それが近代という出来事なんですね。知恵を集積して持っていると、またそこはいろんな知恵が集まってくるセンターになっていきます。それが大学の役割ですね。ケンブリッジ、オックスフォードなどは、古くから持続的に世界の知をそこに集め続けていました。

像

一言で仏教といっても、その内容はじつにさまざまです。ご存じのとおり、インドで発生した仏教は東南アジアに伝わり、中国に伝わります。じつは中国に伝わったことは、すごいことなんです。中国は漢字を使っているでしょう。漢字はいくつかの意味を持つ、表意文字という極めて稀な表現形態を有しています。中国はその文字によって自分たちの意識を外化することを続けてきました。仏教が中国に伝わったとき、サンスクリットというインド・ヨーロッパ語の起源となった世界が、異なった言語世界に手渡されて、すっかり趣を変えたのです。それは仏教ではなくなったという意味ではありません。表現が変わったのです。

仏教が伝わった当時、中国にはすでに道教があり、儒教がありました。すでに必要な世界観は確固として出来上がっていました。ところが、インドの仏教世界が持っていた思想内容が漢語世界の人々に大きなインパクトを与え、儒教-道教という二極構造を変え、その中に浸透していったのですね。その後、漢字文化圏の東アジアには、中国の言語に託されたすがたの仏教が入っていきます。

一方、東南アジアは仏教の言語の翻訳をしていません。パーリ語という、紀元前1500年ぐらいの、サンスクリット語にきわめて近い言語を直輸入しています。そしてそれぞれの自国の言語とは全く違う、聖典語というべきこのパーリ語を使って、仏教をそのまま引き受けて現代にいたっています。言葉が変わらないっていうのはすごいことです。例えば日本語は、平安時代ほどの近い時代のものでも、文法をちゃんと勉強しないと読めないですね。そのぐらい言葉はどんどん変わっていくのですけれども、インドの場合はそれが全く変わってないのですね。3000年、全く変わってないってどういうことかっていうと、ものすごく意識的に言語をとらえ続け、変化しないように保ち続けているということです。そうした言語の仏教を東南アジアは受け入れているので、同じ仏教世界でも、東アジアとはまったく違うすがたで展開しています。

日本での仏教研究の始まり

話を戻します。ヨーロッパにおけるインド学の成立から150年ほど経ち、ヨーロッパにおいて宗教学が自立し、知識の集大成が出来上がってきたころ、日本が明治維新を迎えます。明治になると、江戸時代までの学問では時代に対処できないということで、近代の教育制度を整え、そうした動きのなかから東京大学が出来ます。それが帝国大学になるのが1886年ですかね。ここで、ようやくヨーロッパの知識を一つの制度として受け入れる体制が日本に出来ます。その中にいろんな学問が入ってくるわけですけど、仏教の研究もその一つです。

明治の最初期には、仏教を研究するために、みなイギリスやドイツに留学しました。もともとサンスクリット語というヨーロッパの母体となった言語で記されていた仏教が、中国に伝わり、漢語で書かれて、日本語にもなってきたわけですが、もう一度その起源に戻って、そこから見えてくるものによって、自分たちが接してきた仏教を照らし返すという大作業を始めたのが、この研究室の淵源です。

もう一つ問題がありました。19世紀の終わりごろ、東南アジアの仏教だけがヨーロッパから世界に発信されていて、仏教は東南アジアにあるものだという了解が世界の中で出来てしまっていました。でも東アジアにも仏教はあります。日本にもあります。お坊さんたちもたくさんいます。それが、何か正統からはずれた、どこかいかがわしいもののように理解されはじめていたんですね。明治以降になると、確かに日本のお坊さんたちは結婚していますし、それはまた特別な近代の事情があってなんですけど、余計に西洋の偏見が強くなりました。

そこで、日本の、とくに東大の先輩たちが、これはダメだ、歪んだ仏教理解をきちんと正さなければならない。東南アジアにも仏教があるけれども、東アジアにも独自の伝統をもった仏教があることを示さなければならないと考え、世界の研究者の認識を変える努力を始めます。それはヨーロッパに留学した最初の世代の人たちが、使命として感じて帰ってきたものでもありました。

それを明らかにするためには何をしなければいけないかというと、仏教が生み出される知識の母体となる経典・テキストを世界の人たちに読めるかたちにし、世界の人たちが利用できるようにすることでした。東アジア仏教の知識の基盤となるテキストを校訂し、出版していくことをやったのが、この隣接研究室の初代教授であった高楠順次郎という方です。

そのとき編纂して出版したのは「大正新脩大藏經」という大蔵経です。中国では古くから経典は写本として書かれ継がれて、宋代以降は木版になりますが、それは1つの王朝の一世一代の事業のようにして作成されたものです。ものすごい分量があり、ものすごい労力と費用がかかるので、中国の王朝もそう簡単にはできなかったのです。ただ、最も古い経典は日本に残っています。そうしたものをできるかぎり網羅的に集め、ヨーロッパが照らし返している新しい人文のなかでの仏教という表現に変え、逆に世界に発信していくことをやったのですね。「大正新脩大藏經」はいま世界の研究者が基本テキストとして利用しています。

現在のインド哲学・仏教学研究室のあり方

ここからようやく私のやっていることに入ります(笑)。今はそうした経典の内容が、書物・印刷物から、ご存じの通りデータベース・テキストデータベースに変わってきています。知識が新たなデジタル媒体に改変されていくのは大きな事業となり、国際競争の重要なテーマともなっています。

この研究室の名前にも入っているインドは、世界地図の中でちょうど東アジアと西洋の中間ですね。だから両者が等距離で会える場なんです。東アジアの世界も西洋の世界も、等しく自分たちを照らし返し、客観化できる場所です。仏教の研究がきわめて国際的である理由の一つは、ここにあります。

ここに持ってきた『デジタルヒュマニティーズ』は、スタンフォード大学で6月に行った学会のレジュメ集です。ここには欧米から400人ぐらい集まっていますが、欧米の学者が95%ほどを占め、日本人の参加者はまだごくわずかです。10年ほど前からヨーロッパとアメリカのそれぞれの学会が共同で始めた新たな営みでして、人文学・社会学全体の学会です。確かに現在はすっかりヨーロッパ・アメリカ主導の学問になっていますが、彼らも、アジアに蓄積された知恵がいかに重要であるかということには、じゅうぶんに気がついてもいるんですね。

来年この学会がハンブルク大学で開かれるのですが、私がキーノートスピーカ(基調講演者)になりました。アジアからは初めてのことです。なぜそれが意味を持つのかと言うと、日本の活動全体が評価されたということなのですね。そして、これまでほとんど知られていなかった日本の活動が、なぜ短期間のうちに評価されたかというと、この新しい方法に開かれるためのしっかりした基礎が、すでに先人たちによって確かなかたちで築かれていたからです。新たな分野の活動の意義は、古いものを生かしていくためにあると思っています。

みなさん「インド哲学・仏教学研究室って何をやってるのだろう?」って不思議だったでしょう。仏教を中心に、その起源となる3500年前の古代インドの世界、翻って近代ヨーロッパのアジア認識の形成過程、そして現代のまったく新たな研究方法と、じつに大きな広がりを相手としています。

今、世界の研究の焦点の一つとなっているのは、アフガニスタン、パキスタン、ガンダーラあたりから発見された、紀元後ほどない時期の非常に古い写本研究と、チベットに所蔵されていた、これまでは不在とみられていた大乗仏教の経典や解説書の発見です。欧米、日本、中国など、世界の研究者が一緒に集まって解読を進めています。これまでの歴史は今後、かなり書き換えられていくことになるでしょう。

私たちの願いは、東大の学生さんたちが、こうした知識伝承の営みを継承してくれることなんですね。これが続いていくと、遠い過去の歴史につながり、今の世界がぐんと広がります。同じ目的をもつ友達が世界のあちらこちらにできて、大きな喜びになります。もちろん、就職が決まって、社会に出たら、それはそれでまたそこから始まる世界があるでしょう。でも社会に出て、もう一度学問に戻ってくるっていうのも、いい選択肢なんですよ。

―研究者の数はどのくらいなのですか。

東大は研究所なども併せて5人です。ちなみにアメリカの仏教の研究者は、ハーバード大学は9人、コロンビア大学は11人、ミシガン大学は6人、UCLA(編註:カリフォルニア大学ロサンゼルス校)は6人といった具合に、主要な多くの大学に、東大をしのぐ数の研究者をそろえています。本来、日本が仏教研究をリードすることが、世界からも国内からも期待されているのですが、厳しい状況です。

建物

―研究していて楽しいことは何ですか?

世界の研究者と問題意識が直結していくことですね。これはすごくうれしいことです。最初は、海外の研究者の友人など当然ゼロです。ところが、研究というのは不思議なもので、自分だけが夢中でやっていると思っても、ふと気づくと、海の向こうの、見ず知らずの人が同じ問題意識をもって進めているものです。いまではどんどん増えて、お付き合いするのが大変になってきました(笑)。

大学に入ってきたときには、カリキュラムとして与えられているものしかありませんから、自分が何をやっているのか、全体での位置づけ、意義がさっぱり分からないですね。そこにもどかしさや、つまらなさがありますよね。でも、しばらくそこに向き合って、基礎体力をつけ、それからその地をずっと堀り下げていくと、何か地下水のような層に至り着き、海の向こうの相手と通じるものが出てくるんですね。

―先生のお話を伺っていると、他の学部に比べて、協力して研究分野を発展させていくという面が強いように思えますが。

それはその通りでしょうね。景色がよくみえるので友人が出来やすい。それだけ規模が小さいということはあるでしょう。しかし、協力して分野を切り開くことと、ライバル関係にあることとは、両立しないことではないのです。僕のプロジェクトは、ずっと台湾と競合関係にあって、そことはときに熾烈なやり取りをしました。でもそれと友人であることは両立します。

僕の経験ですが、競争っていうのは、上手くやっていかないとその分野が疲弊してしまいかねません。足の引っ張り合いみたいになると、分野全体が弱くなってしまう。逆にいい競争をすると、分野全体が活性化されて、全体として伸びていく。それは強く感じました。

でも、弱い人間ですから、本当に苦しくなると「ちょっと足引っ張ってやりたい」って思うこともあります(笑)。でもそれをすると、自分がみじめになる。小さな「プロジェクトX」みたいなもので、さっき言ったプロジェクトというのは、大蔵経のデータベース化の事業なのですが、台湾のライバルのグループが資金力とマンパワーにものを言わせて先に仕上げ、ほとんど世界のデファクト(標準規格)になろうとしていました。そのとき、とあることで、相手が大きな窮地に立たされる場面がありました。そのとき、彼らを助けられるのは、僕たちしかいませんでした。そこで僕たちは敵に塩を送ることを決めました。そのために、そのあとしばらくは自分のほうが極めて厳しい状況に追い詰められることになったのですが、でもまっとうな判断ができてよかったと、心から思っています。

―ここまで案内していただいた事務の方に、先生が何か凄い賞を受賞されたと伺ったのですが。

いや、恐縮です。でもとても恥ずかしいので、文学部のホームページをご覧いただくこととして、ここではお話を省略させていただきます。

―就職の状況はどうなのですか?

誤解されているんだけれども、イン哲はいいですよ。僕が教員としてこちらに来てから、学生たちは、JR東日本とか日本テレビに行きました。「へえ、そんなとこにも行くんだ」って思いましたね。教育関係、都庁、教師など、安定した職が多いです。信州テレビに行った人もいました。就職活動の時は、面接で「文学部なんか行って何するつもりだったの。就職できると思ってるの」ぐらいの嫌味を言われることはあるようですね。それは面接官のパフォーマンスでしょう。

文学部の就職の状況も同じかそれ以上にすごくいいですよ。本当にここは誤解があります。大手もちゃんと押さえてますし。だから教務課の人から聞いたんだけど、ガイダンスのときも就職先一覧を必ず配るようにしてるそうです。HPにも載っていますし(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/applicant/highschool/1550.html)、安心して文学部に来てくださいと言いたいところですね。

―文学部の中のインド哲学・仏教学研究室はどのようなものでしょうか。

今まで話してきたこのインド哲学・仏教学の研究室は、もとより文学部の中の研究の一角でしかありません。それぞれの研究室では、それぞれの歴史的課題を抱えて、大切に教育・研究を進めてきています。そのそれぞれの課題は、同時にそのまま世界に通じるレベルのものばかりです。文学部っていうのはすごいところで、30近い研究室があるんですけど、それぞれの分野で固有の歴史を、本当に大切にし続けてきているのです。それはいずれも、日本という場所で、世界の学問・歴史を引き受けていく方法なのですね。たとえば英文学なら、イギリス人がイギリスでやる英文学と、日本人がこの日本という場所でやっていく英文学とには、重要な意味の違いがあります。日本固有の意味がでてくるのです。しかし同時にイギリス人と競争もしていかなきゃいけない。そういう大変なところに身をさらしつつ、日本の抱えている日本の文化という、いわば1つの身体を手放さないようにしつつ、研究を進めなければなりません。

30もの研究室、外から見ると本当にただ細かくて、どう入っていいか、どう出ていったらいいか分からないように思えるでしょう。入っていったら出られないんじゃないかって、みんなそう思うんでしょう(笑)。でも、出る必要なんてなくて、どんどん入っていけばいいだけなんです。抜ける必要などないところまで入っていったらしめたもので、人生の奥義というと偉そうですけど、その向こうには、山を登られなければ決して見えない景色が広がっています。

建物

―最後に一言お願いします。

一度東大生であったなら、たとえ卒業しても、東大生であり続けると考えていいと思うんです。東大生であったことを、生涯の権利を得たと思って、最大限使っていくことだと思います。肩書きとして使うなんていうのは、一番下手な使い方で、なにより人を使うことですね。使うといえば表現が悪いけれども、研究室の先生たちとか先輩とか全部含めて、さまざまな人と出会って、その関係を先まで大切にしていくことです。仲間こそ財産ですから。たとえ大学を離れていくことがあっても、大学や研究室って、変わらずにいてくれると思います。だからまたそこに戻ってきて、ときに深呼吸をしてみるというのも、ありだと思います。是非、東大を生涯自分の場として使っていってほしい、それを最後のメッセージにします。


インド哲学仏教学研究室ホームページ: http://www.l.u-tokyo.ac.jp/intetsu/

(編集:東京大学UTLife)